異端の球児 竪山博之

2014年07月12日

小学5年生だったろうか。ある頃から、父とのキャッチボールが苦痛になった。グラブが逆だ、腰が高いと、指導が本格的になってきたからだ。

昭和9年の早生まれだった父は、旧制一中から鹿児島県立鶴丸高校と、6年間、野球を続けたことが自慢で、鹿児島大会では優勝したのに、あと一歩のところで甲子園を逃したという。当時は九州大会でも好成績を上げることが甲子園大会出場の条件だったらしい。

競技人口が多いから、社会人になっても楽しめるのが野球だと云う父の説得にも関わらず、鹿児島市立甲東中学ではバスケットボール部に入った。それも第一志望のサッカー部がなかったからという消極的動機で。つまり野球は眼中になかった。

鹿児島市の陸上競技会の常連だったほどで、体力には自信があり、バスケットもそれなりに楽しんだ。しかし、高校進学時に気が変わり、野球を選んだ。父は自分と同じ鶴丸高校の野球部入部を喜んだが、坊主頭が好みでなかった母は不満そうだった。

当時、私たちは鹿児島市の中心部に近い、新屋敷町の公社ビルに住んでいたが、私の高校入学後すぐ、母は胃がんのため、公社ビルとは目と鼻の先の鹿児島市立病院に入院した。毎朝、公社ビルから、鹿児島市を縦断する甲突川沿いを遡上するように高校へ通ったが、私が市立病院脇の遊歩道にさしかかると、母は病室から手を振ってくれた。寝間着が妙に白かった。

1979年、鹿児島県立鶴丸高校の野球部は、部員16名だったが、エース川口和博(3年)の力投で、前年に続き鹿児島県大会の決勝まで駒を進めた。会場は鹿児島県立鴨池野球場。相手は甲子園の常連、鹿児島実業高校。ピッチャーは、後に中日ドラゴンズで活躍する鹿島忠。クリーンナップには、やはりプロ野球の読売ジャイアンツへ進んだ栄村忠広が名を連ねる。

中学までバスケット部だったが故に、ルールさえ曖昧なのに、私はそんな大舞台に、胸に臙脂色の楷書で鶴丸と書かれたユニフォームを着て、汗だくでベンチの隅にいた。こどもの頃からの野球少年のように声をからしてチームを鼓舞していたような、ただただ呆然としていたような、今となっては、夢の出来事のようで判然としない。

鹿児島の炎天下の球場で、初戦から、二回戦、三回戦、準々決勝、準決勝、決勝と力投を、しかも準決勝以降連投だったエース川口の疲労はいかほどだったろう。鶴丸高校の夢は叶うことはなかった。

母の胃がんは悪化する一方で、それもあり、私は秋の大会を待たず野球部を退部した。母は翌春亡くなった。

上京後、20代後半で空手を始め、30歳になるとチームを作って、10年ほどサッカーをかじってみた。7年前に鹿児島に戻り、爾後、久しく体を動かしていない。父が好きだったゴルフも興味がない。

「3番レフト○○君」

我が家は、鹿児島県立鴨池野球場に近い。異端の高校球児ではあったが、場内アナウンスが聞こえてくると、今でも高揚する。そして、また夏が来たと思うのである。

(敬称略をご容赦)

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